堕ちた勝利の女神
作者:しょうきち
公開
13. EP3―④ ~墜落のはじまり~
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 みのりの誘いから二日後。
 今日が約束のドラフト会議の日である。
 あの後みのりから『買い出しとかは一・二年で行ってきますので、ご心配なく。先輩は夕方4時くらいに来てくれますと助かります(ハートマーク)』とのメッセージが携帯に届いていた。
 現在の時刻は昼過ぎ。約束の時間まではまだ暫くある。
 沙希は午後から学校を早引きし、今日も喫茶店でシンと会っていた。
 シンはアイスコーヒーを、沙希も同じものを頼んでいる。以前は飲み物と言えばお茶かスポーツドリンクの二択であった沙希であるが、最近は彼氏であるシンの影響でコーヒー党まっしぐらである。
 ストローをかき回し、ミルクと砂糖を混ぜてゆく。カランコロンと氷の音が、よく冷房の効いた店内に響く。
「……それでね、うちの高校の野球部で、エースの市川くんのプロ入り記念にパーティーをすることになったの」
「ふうん……そうか。でも、そんな都合よく指名なんてされるのかい? プロ野球のスカウトの言うことや雑誌の下馬評なんて、いつだって当てにならないぜ? 神様仏様稲尾様みたいに絶賛しておいて、いざドラフト会議の当日になってみたら指名漏れなんてのは良くある話だぜ?」
「そんな事ないわっ! 市川くんは、本当に凄くて……一生懸命で……。甲子園こそ行けなかったけど、プロ入りしたら……絶対っ、大活躍が待ってるんだからっ!」
「……そ、そっか。沙希ちゃんが言うならそうなんだろうな。じゃあ沙希ちゃんは、今夜はパーティー・タイムとしゃれこもうって事なのかい?」
「それが、困ったことになっちゃって……」
 そう言うと沙希は携帯電話を取り出してシンに見せた。画面には未緒とのメッセージツリーが表示されている。
 そこには、みのりの来訪の際にびっくりして送ってしまった沙希からのメッセージ『金曜あたり、お見舞い行くわね』に対し、未緒からの『心配してくれてありがとう』『身体はもう大丈夫だから』『来てくれるなら、久しぶりにパジャマパーティーでもどう? お菓子用意して待ってるから』との返信があった。
「これは?」
「未緒ちゃんからのメッセージ」
「微笑ましい、花のJKの青春の一ページってやつかい? 俺も混ざりたいくらいだね」
「そうじゃあなくって、かぶっちゃったの。これ、今日なの」
「ははん、成程、成程。要は、野球部のドラフト指名記念パーティーと、未緒ちゃんとのパジャマパーティーとでダブル・ブッキングしちまったって事か」
「そうなのよ。困ったわ……」
「そんなの、もう直前なんだし、どちらか一方に断りを入れるしかないだろ? まあ、ドラフト会議は一年で一度、今日この日しかないんだし、普通に考えたら未緒ちゃんにゴメンして、野球部の方に行くんじゃないか?」
「それは、そうなんだけど……」
「まあ、どっちでもいいけど、沙希ちゃんが選ぶしかないだろ。みんなのアイドル・沙希ちゃんの言うことなら、たとえ約束を反古にされたって納得してもらえるさ。だって、みんな沙希ちゃんの事が大好きだからね」
「そ、そうなのかなぁ……」
 沙希は逡巡していた。未緒のメッセージに対しては、まだ何も返信していない。
 これが全くのイーブンな状況でのダブル・ブッキングであったなら、恐らく野球部の方を優先していたであろう。実際一、二年の頃は、部活を優先するために未緒からの遊びの誘いを断ることがままあったし、未緒も「それじゃあしょうがないね」と、笑って許してくれていた。
 しかし、今は状況が少し違う。
 未緒の体調不良には少なからず自責の念を抱いていた。自身のデリカシーのない言葉が未緒を傷つけ、結果体調に響いたのだと思っていた。
 恐らく未緒の方も先日の事は何かの気の迷いであったのか、申し訳無いと思っているに違いない。だが、受験勉強のために1日たりとも無駄にしたくはないと言った事も確かではあるはずだ。そんな中、未緒は勉強よりも友情の修復の為にこそ時間を割きたいと思ったのであろう。その気持ちを大切にしたいと思った。話した訳でもそうしたメールを受け取った訳でもなく、何も根拠は無かったが、沙希はそのように確信していた。
 もしも『目の前に二つの道があり、双方の道の先で助けを求める声がする。助けられるのは一方のみ』といった状況に立たされた場合、よりか弱き方、苦境に立たされており、今すぐ助けが必要な方を助ける。それが虹野沙希という人間なのであった。
 一方でみのりの事も心配である。
 野球部マネージャーとして愛弟子のような存在である彼女に対しては、後になってもっと色々な事を教えておけばよかったと思うことが多々ある。スコアブックの付け方、用具の整備のやり方やグラウンド整備の仕方、そして料理のテクニックなど、一通り引き継ぎはしたが教え足りないところがまだまだある。
 自身は引退済みの身であり、あまり手や口を出しては彼女のためにならないと思いつつも、ついお節介を焼きたくなるのだ。
 料理については特にそれが言える。
 膨大な量となる野球部への差し入れや、合宿の際の食事を、みのりと共に手分けして作った事がある。みのりの料理の腕も悪くは無いが、まだまだ小慣れ感が足りていないと沙希は見ていた。
 みのりと合流する予定時刻が刻々と迫る。
 当初の予定どおり野球部の手伝いに行くのか、未緒との友情を優先するのか。
 どちらを優先するにせよ、一刻も早く一方へ断りのメールを入れなくてはならないが、沙希にはその踏ん切りが付けられずにいた。


 対面座席に座る、シンの携帯が鳴った。
「お、沙希ちゃん、悪い。少し外すぜ」
「ん、うん」
 そう言うとシンは席を立ち、エントランスへ向かって行った。店の入口から外へ出て、何やら電話口で話し込んでいる。
(シン君、何話してるのかな……)
 手持ち無沙汰になり、すっかりコーヒーが空になって氷のみになったコップを傾ける。
 ガラス越しに見える電話中のシンは、なにやらヒートアップしているように見えた。
  かと思えば、急に畏まったような表情で直立不動となり、ペコペコと誰もいない虚空に頭を下げたりもしていた。
(仕事の関係かなあ……?)
 沙希はシンの仕事について、あまり詳しく聞かされてはいなかった。「会いたいの」と言えば平日の日中でも大概応じてくれるところから、少なくとも時間に融通の効く仕事なのだろうとは思っていたが、突っ込んだ話をすると、いつもはぐらかされていた。


 時間にすると5分くらいであろうか。電話をし終えたシンは、沙希の待つ座席へと戻ってきた。
「シン君、何話してたの?」
「いや、大したことないヤボ用だよ。それよりさ、そろそろここ出ようぜ。払っとくよ」
「う、うん……。ありがとう、シン君」
 シンは沙希の耳元へ唇を寄せ、聞こえるか聞こえないかの小声で囁いた。
(夕方のさ、約束の時間までもう少しあるだろ? ちょっとホテル寄って休憩してこうぜ。たっぷり可愛がってやるよ)
 沙希は体温が1℃程上がるのを感じた。胸がときめく。頬が桜色に染まる。下腹部の辺りが熱を帯びる。これら全てが発情のサインであり、それだけで不安も悩みも理性も全てが吹き飛ぶ、麻薬のような行為の誘いであった。
 沙希は蕩ける顔を周囲から悟られないように、伏し目がちにコクンと頷いた。
 何故他人に表情を見られるのを厭ったのかというと、そのときの自分が表情筋の弛みきった浅ましい雌の顔をしているのだろうという事が、鏡を見ずとも分かったからである。
 この顔は、セックスの際、二人きり、シン以外の人間には見せてはいけない表情である。そのように教え込まれていた。


 そろそろ乗り慣れてきたシンのバイクの後部座席であった。
 景色が急激に流れていく。
 車と同じくらいのスピードであるが、直接外気に触れながら走り抜ける感覚はずっと速く感じられ、癖になりそうなものがあった。
 はじめは恐怖心が勝っていたが、慣れてくれば風を切って走っている実感があり、冷たい風が心地よかった。
 10月の風は速度を帯びると少し肌寒いものがあったが、どうせこの後は汗だくになって腰を振り合うのである。少し冷えるくらいで丁度よかった。
 慢性渋滞気味の都内の幹線道路を駆け抜けてゆく。車と車の間を縫うように、シンは自宅へと軽快にバイクを飛ばしていた。
「あっ!?」
 一瞬、沙希の肩に衝撃が走る。
 追い抜こうとした車のドアに、沙希の肩に掛けた鞄がぶつかった感触があった。どこか擦れたりしていないか気が気でなかったが、一秒後にはその車は遥か後方に追いやられていたので、何かに当たったような感触も秒で記憶から吹き飛んでいた。
 早くセックスをしたかった。
 
 交差点で信号待ちをしていたところで、後方から追い付いてきた黒塗りのレクサスが、けたたましくクラクションを鳴らしてきた。
 何事かと思い振り返ったところで声を掛けられた。底冷えするようなドスの効いた剣幕である。
「そこのバイクっ、端に寄せろっ!」
 尋常ではない剣幕に押されてバイクを道路の端に寄せたところで、やたらと目付きの鋭い男が助手席から降りてきた。髪型は金髪のソフトモヒカン。爬虫類のような細い目に剃り上げた眉。全身を黒スーツで固めており、180センチ超はあろうかという背丈に、スーツの上からでもはっきりと分かる程の厚みのある筋骨粒々とした体格であり、尋常ではない威圧感であった。
「てめぇ、さっきウチのクルマに擦っといて逃げやがったなぁ? あぁ!? ちょっと面貸せや」
「はぁ!? んだと、因縁付ける気かぁ? そんなモン知らねぇよ。こっちがぶつけた証拠でもあんのかよ?」
 シンが応戦する。しかし、男がサムズダウンで指差した先には車体のへこみと金属片で刻み付けたような塗料の剥げがあった。それを見た瞬間、沙希の脳裏には先程追い抜きの際に鞄を擦った記憶が鮮烈に蘇っていた。
「えあっ……あっ、あの……!?」
 顔面蒼白になり、素っ頓狂な声を上げる沙希。それを見て金髪の男は心得たように頬を歪めた。
「おい、兄ちゃんよぉ、可愛い彼女は正直だな。心当たりがあるみたいだぞぉ? オラァ、とっとと事務所に来いっ! 後ろに乗れっ!」
 有無を言わさぬ口調であった。
 男に急かされ、不承不承といった体でシンがエンジンを停め、バイクを降りる。降りるや否やぐいと手を引かれ、シンは車の後部座席へと放り込まれた。続いて沙希も乗るように促された。乱暴な扱いはされなかったが、それがかえって恐ろしく、震えながら車へ乗り込んだ。
 車内は意外にも小綺麗な雰囲気ではあったが、後部座席からはスモークで外の様子が伺い辛くなっており、また、タバコ臭が鼻についた。
 これから一体何をされるのかと思うと不安でならなかった。もしかしたら、今なら逃げられるのかもしれない。大声を上げて通行人に助けを求めれば何とかなるかもしれない。しかし、元はと言えば自身の鞄を擦ってしまった事に原因がある。その後ろめたさが咄嗟の行動を躊躇わせ、沙希を金縛りにしていた。
 あれやこれやと思考を巡らせていると、車が走り出した。
「こ、これから、俺たちを何処へ連れていくつもりなんだ……?」
 と、シンが押し殺した声で言った。がっくりとうなだれ、表情は伺い知る事が出来なかったが、心なしか震えているようにも見えた。
「あぁ? さっき言わなかったか? もうすぐウチの事務所に着くからよ、大人しく待ってろっ!」
「は、話なら俺が聞く。運転してたのは俺だっ! 彼女は関係ないだろ? 帰してやってくれっ!」
 シンが沙希の方をチラリと見やる。
「駄目だ。ぶつかったのはその子のバッグなんだよ。そっちに覚えが有ろうが無かろうがこっちはちゃんと見てたんだッ! 落とし前、付けてもらうぞ」
 それだけ言うと金髪の男は黙り混み、スマホをチェックし始めた。シンはそれ以上抗議の声を上げるのを止めた。車内に重い沈黙が流れる。
 黒塗りの車、強面の男、暴力と恐怖、拉致も同然に連れていかれているこの状況。すべての要素が像を結び、沙希の脳裏にとある三文字を浮かび上がらせていた。
 ヤ・ク・ザ。
 これから何が起こるのか、沙希には想像も出来ない。しかし、身も凍るような恐ろしい状況に首までどっぷり漬かってしまった事だけは分かった。
 恐怖に震えていると、隣のシンから太股辺りをトントンと叩かれ、小声で囁かれた。
(沙希ちゃん、すまねぇ、大変な事になっちまったな。でも、心配いらないよ。君の事は、必ず俺が守るから……)
(シン君……!)
 圧倒的な暴力の匂いを前に、正直なところ気休め程度にしかならなかったが、この状況、今や頼れる存在は隣のシンだけであった。


 走行時間は10~15分といったところであろうか。
 スマホを見ようとすると外部へ連絡をと取ろうとしていると見なされるのか、底冷えするような目で睨まれたため、走り出してから経過した時間は正確なところは分からなかった。恐怖によって狂わされた体内時計は正直言って怪しいところがあり、もっと長く走っていたようにも、短く走っていたようにも感じられた。
 外の景色は殆ど伺い知ることが出来なかったが、先程連れていかれた地点からはそれほど離れていないということであろうか。
 目的地らしき建物は大通りからは随分と外れた区画にある、古ぼけた貸ビルのようである。看板や表札めいたものは出ておらず、真っ当な会社だとか団体などとは程遠い雰囲気であった。
「こっちだ。歩け」
 先に車を降りていた金髪の男が、沙希たちの乗る後部ドアを開けながら言った。沙希は逃げるなら今しかないと考えていたが、機先を制される格好となった。
 エレベーターで四階へと上がった。オフィスとおぼしき部屋のドアを開け、部屋に入るよう促された。
「入れ」
 扉を開けた先では、バラバラにデスクが数台置かれており、二十歳前後とおぼしき若者数名がひっきりなしに電話をかけていた。沙希達が入ってきたのを見ても横目でじろりと一瞥するだけで、再び電話に戻っていた。
 誰も彼もスキンヘッドやパンチパーマといった威圧的な髪型にスカジャン、スウェットといったラフな服装で、とても会社勤めしている人間には見えない。
 何なら沙希たちをここまで連れてきた金髪の男が上等そうなダブルのスーツで固めているという意味では最も会社員らしい服装をしているのだが、体格は常人よりも2~3回りは大きいし、暴力を生業にしている人間特有の底冷えするような空気を纏っており、堅気からは最も遠い地点に立っているように感じられた。
 先程感じた悪い予感は、やはり間違いなかったのだと沙希は確信した。
 全員が部屋に入り、入ってきた扉がガチャリと閉められたのを確認すると、金髪の男がいきなりシンの頭を殴りつけた。
「が……っ!?」
「い、いやあっ!?」
 狼狽し、悲鳴を上げる沙希。金髪の男はそれには構わず、崩れ落ちたシンの胸ぐらを掴み上げて引き起こした。
「ヨォ、舐めた真似をしてくれたナァ、オイ」
「へへ……はぁ……はぁ……。ち、ちょっと擦っただけだろ? いや、ちょっぴり擦っただけじゃないスかッ!?」
 金髪の男は無言でシンを引き寄せ、鳩尾に膝頭を叩き込んだ。
「が……あっ!?」
「今、何か言ったか?」
「は、払いますっ、修理費、払いますからっ!」
「フン、金の問題じゃねえんだよ。ぶつけといてそのままトンズラここうっていう舐めた真似が許せねえんだよ」
「そ、そんな……」
「ま、どうしても修理費払いたいって言うなら、受け取ってやるのも吝かじゃあないがな」
「そ、それで、修理費、いくらぐらいなんスか……?」
「ふん、100万ポッキリにしといてやる。修理費慰謝料手間賃含めてな」
「高っ!?」
 金髪の男が胸ぐらを掴み、もう一発シンを殴ろうとしたところで沙希が割って入った。目には大粒の涙を浮かべている。
「や……や、やめてっ!」
「あァ!? ンだよ、嬢ちゃん?」
「お願いだから、ぼ、暴力はやめてっ! け、警察を呼ぶわよっ!」
「ふーん、最寄りの警察署からここまで、どのくらい距離があるか分かってンのか? そういう舐めた真似しようってンなら、こっちにも考えがあるぜ」
「え……!?」
「ポリが来る前に、お前ら二人を喋れないようにして、ここは完全撤収だ。そんでもって適当な山まで連れていって、バラして埋める。安心しろ。彼氏とはずっと一緒だ。永遠にな」
「あ、あ……ぁ……!」
 殺される。あまりにもあっさりと。そのあまりの恐怖に頭が真っ白になった。何か言おうとしても喉の奥からはヒューヒューと乾いた空気が漏れるだけで、言葉が出てこなかった。
「ま、待てっ! 待ってくれッ! か、金なら払うッ! 払わせてくださいっ! だから沙希ちゃんは、彼女の事はどうかッ……!」
「ほーう、いい心がけだな。美しい愛情ってやつかい? それじゃあ耳揃えて払ってもらおうか。言っておくが、キャッシュ以外は認めんからな。さあ、今から最寄りのATMに行くぞッ!」 
「ちょ、ちょっと待ってくれッ! へへ…… キャッシュカード、今持ってないんスよね……。ここは一つ、一旦家に取りに帰らせてもらうって事でひとつ……」
「あーっ!? どうせそのままトンズラする気だろっ! んな事許す訳ねえだろっ! なめてンのか!」
「ヒィっ! じゃあ、ど、ど、どうすれば……」
 ガタガタと震えるシンを横目に、金髪の男は沙希の方を見やった。
「おい、お嬢ちゃん。沙希……って言ったか?」
「あ……ぁ……」
「おいっ! 返事くらいしろっ!」
 金髪の男が、沙希の頬を張った。渇いた音が響き渡る。
「……つっ!」
「や、止めろっ!」
 今度はシンが沙希と金髪の男の間に入った。それを見た金髪の男は、二発目をお見舞いしようとして振り上げていた右手を下ろした。
 パニック状態に陥っていた沙希は、意思とは無関係に発せられた自身の悲鳴を聞いて我に返っていた。時間が経つにつれジワジワとヒリつく頬が意識をハッキリとさせ、嫌が応にもこれが現実であるということを自覚させる。
 沙希の瞳を見下ろし、金髪の男が言った。
「フン、嬢ちゃんよぉ、彼氏の為にちょっと頼まれてくれ。今からアンタがこいつの家に行って、カードで金を下ろしてここまで持って来てくれよ。出来るな? アンタが帰って来るまで、彼氏クンはず~っとここで待ちぼうけだ」
 ここで出来ないなどと言ったら何をされるか分からない。沙希には選択肢は残されていなかった。必死でウンウンと頷いた。
「た……頼みがあるっ!」
 シンが言った。
「あぁん?」
「か、紙とペンを貸してくれないかッ。カードの場所と暗証番号、彼女に書いて渡すからッ!」
 金髪の男は一瞬何事かといった表情をしたが、やれやれといった仕草で懐からボールペンとメモ用紙を取り出し、シンに渡した。
「ホラよ。とっととしろ」
 シンはメモ用紙に手早く書き込むと、四つ折りにして沙希に手渡した。
「沙希ちゃん、何度も来てるから俺の家への行き方はもう分かるね? 合鍵はポストの裏側だ。それとこのメモにはキャッシュカードをしまってある場所と、暗証番号を書いてる。外に出て、誰もいないところまで来たら開けて確認してくれ。ここに書いてあるとおりにするんだ。いいね?」
「シン君……!」
 沙希は、目に涙を浮かべながらコクコクと頷いた。
「さあっ、とっとと行ってこいッ! 言っておくが、今日中に戻ってこなかったり、警察にチンコロした場合は二度と彼氏と五体満足で会えると思うなよ? いいなッ!」
「う……ううっ。シン君、待っててね。急いで戻ってくるからッ!」
 沙希は逃げるように事務所を飛び出した。
 無我夢中で走った。急がなくてはならない。まずは兎に角駅だ。土地勘の無い場所だったが、駅を目指して、人通りの流れに沿って沙希は走った。
 五分ほど走ると、やがて駅舎が目に入った。駅名は、『神泉駅』とあった。
 事務所からここまでの道程はやや起伏が多めであり、たどり着いた時、沙希はかなり息を切らしていた。
 鞄から財布を取り出そうとしたとき、沙希はポケットの中に納めていた紙片の存在を思い出していた。
(ハァ……、ハァ……。そうだ……、シン君から貰ったメモ、見ないと)
 先ほどシンから受け取ったメモを広げる。
 しかし、中に書かれていた内容はカードの場所や暗証番号などではなかった。
『沙希ちゃん。君をこんな目に逢わせたりして申し訳ない。家にキャッシュカードを忘れたなんてのはウソだ。そもそも口座に100万なんて入っていない。沙希ちゃんは奴らの目の届かないところまで逃げるんだ。金の事、決して沙希ちゃんが何とかしようなんて考えちゃいけないよ。俺の事はもう忘れてくれ。危険な目に逢いたくなかったら、二度と連絡してこないでくれ。こっちはまあ、何とかする。それじゃ、さよなら』
 沙希は呆然と立ち尽くしていた。
(シン君っ……! あぁ……、どうしよう、どうしたらいいの……!)

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